前回の記事(文末の関連リンクをご覧ください)では、江戸時代の居酒屋文化や立ち飲み文化について整理しました。
その後、日本は明治維新によって大きく変化していきます。
西洋文化の流入、近代化、工業化、都市化。
こうした変化は、
酒場文化や飲酒文化にも大きな影響を与えました。
特にこの時代は、「ビール文化」が本格的に広がり始めた時代でもあります。
この記事では、明治から戦前にかけて、酒場文化とビール文化がどのように変化していったのかを整理していきます。
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明治維新と日本の近代化
明治時代の日本は、それまでの江戸時代とは大きく異なる社会へ変化していきました。
西洋文化を取り入れながら、近代国家を目指していく流れの中で、人々の暮らしや価値観も変わっていきます。
その変化は、酒場文化や飲酒スタイルにも影響を与えていきました。
まずは、酒場文化が変化していく背景となった、明治時代の近代化について整理していきます。
明治維新とは何だったのか
1868年の明治維新によって、日本は江戸幕府による統治から、近代国家へと大きく方向転換していきます。
この時代、日本は西洋諸国に追いつくことを目指し、さまざまな制度や文化を取り入れていきました。
服装、建築、食文化。
酒場文化もその一つです。
それまでの日本酒中心文化に加え、西洋式の酒場やビール文化が少しずつ広がっていきます。
都市文化の変化
明治時代になると、鉄道網の整備や工業化が進み、都市文化も大きく変化していきます。
工場労働者や会社員など、新しい働き方をする人々も増えていきました。
また、人口の都市集中も進み、人々は家の外で過ごす時間が増えていきます。
こうした変化の中で、酒場は単なる飲酒空間ではなく、都市生活の一部として発展していくようになります。
「近代的な飲食店」の登場
明治時代には、西洋料理店やレストランなど、それまでとは異なる「近代的な飲食店」も増えていきます。
テーブル席、洋食、洋酒。
こうした西洋式文化は、日本の酒場文化にも影響を与えていきました。
その中で、ビヤホールのような新しい飲酒空間も誕生していきます。
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ビールはどのように広がったのか
現在では当たり前のように飲まれているビールですが、明治初期の日本では、まだ一般的な飲み物ではありませんでした。
最初は外国人向けの飲み物として始まり、徐々に日本人にも広がっていきます。
ここでは、日本にビール文化が広がっていく流れを整理していきます。
日本に入ってきたビール文化
ビール文化が本格的に入ってきたのは、開港以降の外国人居留地がきっかけでした。
1859年の横浜開港以降、横浜や神戸には多くの外国人が居住するようになります。
彼らは母国と同じようにビールを求めたため、輸入ビールや外国人向け酒場が作られていきました。
当時は、イギリス系エールやドイツ系ラガーなど、さまざまな西洋ビールが入ってきていたと言われています。
また、横浜では1869年頃、ノルウェー系アメリカ人のウィリアム・コープランドによって「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立されました。
これは現在のキリンビールにもつながる存在として知られています。
つまり、日本のビール文化は、外国人居留地とともに始まったと言っても過言ではないのです。
国産ビールの誕生
明治時代になると、日本国内でも本格的なビール醸造が始まっていきます。
代表的なものとして有名なのが、1876年に北海道・札幌で始まった「開拓使麦酒醸造所」です。
これは現在の「サッポロビール」につながる存在として知られています。
また、1887年には「ヱビスビール」、1888年には現在のキリンビールにつながる「ジャパン・ブルワリー」が誕生しました。
当時のビールづくりは、ドイツ人技師を招くなど、西洋技術を積極的に取り入れながら進められていきます。
つまり日本のビール産業は、「西洋技術の導入」とともに成長していった産業でもあったのです。
ビールは高級品だった
現在では身近なビールですが、明治時代のビールは高級品でした。
例えば明治後期には、ビール1本が10銭〜15銭程度だったと言われています。
一方で当時のそば1杯は1〜2銭程度、新聞1部は1銭前後でした。
つまり、ビール1本でそば数杯分に相当する価格だったのです。
そのため当初のビールは、一般庶民が日常的に飲むものではなく、上流階級や都市部の知識層が楽しむ飲み物でした。
また、洋食文化とも結びついており、「西洋的」「文明的」なイメージも持たれていました。
つまり当時のビールには、味だけではなく、「近代化の象徴」という価値も含まれていたのです。
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ビヤホール文化とは何だったのか
明治から戦前にかけて、日本には「ビヤホール文化」が広がっていきます。
これは現在の居酒屋とは少し異なり、西洋式の空間や文化を取り入れた、新しい酒場文化でした。
ここでは、ビヤホール文化について整理していきます。
ビヤホールの誕生
明治から大正時代にかけて、日本ではビヤホール文化も広がっていきます。
特に都市部では、西洋式酒場としてビヤホールが人気を集めるようになります。
木製テーブル、大きなジョッキ、洋装の給仕。
それまでの和風酒場とは異なる空間は、当時の人々にとって新鮮な体験でした。
また、ビヤホールは単なる飲食店ではなく、「近代的な都市文化」を楽しむ場所でもありました。
実際、銀座や浅草などの繁華街では、ビヤホールが都市娯楽の一部として広がっていきます。
つまりビヤホールは、「ビールを飲む場所」であると同時に、「近代的な空間を楽しむ場所」でもあったのです。
日本酒中心文化との違い
それまでの日本の酒場文化は、座敷や和風空間が中心でした。
一方、ビヤホールでは、テーブル席や椅子文化が広がっていきます。
また、料理との組み合わせ方にも違いがありました。
西洋料理とビール。
この組み合わせは、当時の日本人にとって新しい体験だったとも言えます。
実際の記録と当時の様子
当時の新聞広告には、ビヤホールの広告も掲載されています。
例えば明治後期には、「冷えたビール」や「洋食とともに楽しむビール」を宣伝する広告も登場していました。
また、戦前の写真には、スーツ姿の客がビヤホールでビールを飲む様子も残されています。
こうした記録からも、ビヤホールが都市文化の一部として定着し始めていたことがわかります。(明治のビヤホール風景画像/ChatGPTにより作成)

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なぜビール文化が広がったのか
ビール文化の広がりには、単に「味が美味しかった」というだけではなく、社会的な背景もありました。
近代化、西洋化、工業化。
こうした時代の流れの中で、ビールは少しずつ広がっていったのです。
近代化と「西洋」への憧れ
明治時代の日本では、「西洋的」であること自体に価値がある時代でもありました。
洋服、洋館、洋食。
それまでの日本文化とは異なる西洋文化は、「文明開化」の象徴として受け入れられていきます。
その中で、ビールもまた「ハイカラな飲み物」として広がっていきました。
実際、当時の広告や雑誌には、ビールを飲むことを「近代的な生活」と結びつける表現も見られます。
つまりビールは、単なる酒ではなく、「西洋化した日本」を象徴する存在でもあったのです。
工業化と大量生産
ビールは工業化との相性が良い飲み物でもありました。
設備によって品質を安定させやすく、大量生産にも向いていたためです。
また、瓶詰め技術や輸送技術の発展により、広い地域へ販売することも可能になっていきます。
こうした工業化によって、ビールは少しずつ一般層へ広がっていきました。
軍隊とビール文化
明治以降、日本では徴兵制が導入され、多くの男性が軍隊生活を経験するようになります。
その中で、集団生活や規律文化も広がっていきました。
軍隊では、訓練後や特定行事の中で酒が飲まれることもあり、ビールに触れる機会も増えていきます。
また、軍需産業や工場労働の発展によって、都市部には男性労働者が集中していきました。
こうした「集団労働文化」は、後のサラリーマン文化にもつながっていきます。
つまりビール文化は、近代日本の「集団生活文化」とともに広がっていった側面もあるのです。
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戦前の酒場文化はどのようなものだったのか
ビール文化が広がる一方で、日本酒中心の酒場文化も残り続けていました。
つまり戦前の酒場文化は、和風文化と洋風文化が混ざり合う時代でもあったのです。
ここでは、戦前の酒場文化について整理していきます。
大衆酒場の広がり
都市部では、庶民向けの酒場文化も広がっていきます。
仕事帰りに軽く飲む。
仲間と話す。
こうした文化は、現在の居酒屋文化にもつながっています。
また、日本酒だけではなく、ビールや洋酒を扱う店も増えていきました。
特に大正〜昭和初期にかけては、都市労働者向けの飲食店や酒場が増え、「外で飲む文化」がさらに一般化していきます。
つまり酒場は、都市生活者の日常に組み込まれていったのです。
カフェー・バー文化の登場
昭和初期には、カフェーやバー文化も広がっていきます。
特に都市部では、モダン文化や洋風文化と結びつきながら発展していきました。
音楽、照明、洋装。
こうした空間は、それまでの酒場とは異なる「都市娯楽空間」として人気を集めます。
また、女性給仕が接客するカフェー文化なども広がり、酒場文化はさらに多様化していきました。
つまり戦前の酒場文化は、単なる飲酒文化ではなく、「都市の娯楽文化」としても発展していったのです。
酒場の役割
戦前の酒場も、単なる飲食店ではありませんでした。
人と会話をする。
仕事終わりに息抜きをする。
気分を切り替える。
こうした役割は、江戸時代から続く酒場文化とも共通しています。
また、都市化が進む中で、酒場は「家でも職場でもない場所」としても機能していました。
特に都市生活者にとっては、人との交流や情報交換を行う空間でもありました。
つまり酒場は、都市生活のストレスや孤独を和らげる場でもあったのです。
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海外の酒場文化との違い
日本の酒場文化は、西洋文化の影響を受けながらも、独自の形へ発展していきました。
ここでは、海外との違いも含めて整理していきます。
ドイツのビアホール文化
明治から戦前にかけてのドイツでは、ラガービールを中心としたビアホール文化がすでに発展していました。
特にミュンヘンなどでは、大きなホールに人々が集まり、大きなジョッキでビールを飲みながら食事や会話を楽しむ文化が根付いていました。
これは単に酒を飲む場所というより、都市の社交場であり、地域の人々が集まる公共的な空間でもありました。
日本のビヤホール文化は、こうしたドイツ的なビール文化の影響を受けながら、明治以降の都市部で広がっていきます。
つまり、日本のビヤホールは、西洋文化への憧れと、ドイツ式ビール文化の導入が重なって生まれた空間だったと言えます。
イギリスのパブ文化
明治から戦前にかけてのイギリスでは、パブ文化が地域社会の中に深く根付いていました。
パブは「Public House」に由来するとされ、単なる酒場ではなく、地域の人々が集まる交流の場として機能していました。
仕事帰りにエールを飲む。
近所の人と会話をする。
地域の情報を交換する。
こうした日常的な酒場文化が、イギリスのパブにはありました。
一方、日本の明治期のビール文化は、最初から庶民の日常に根付いたというより、西洋文化を取り入れる都市的・近代的な空間として始まった側面が強くあります。
つまり、イギリスのパブが「地域の日常の場」だったのに対し、日本のビヤホールは「近代的な西洋文化を体験する場」として広がっていったとも言えます。
日本独自の発展
ドイツのビアホールは、大人数でビールと食事を楽しむ公共的な酒場文化として発展しました。
イギリスのパブは、地域の人々が日常的に集まるコミュニティの場として機能していました。
一方、日本の明治から戦前にかけての酒場文化は、これらの西洋文化を取り入れながらも、日本酒文化や和風の酒場文化と混ざり合って発展していきます。
ビヤホールでは洋風の空間でビールを飲む一方、庶民的な酒場では日本酒や焼酎も引き続き飲まれていました。
つまり日本では、西洋式のビール文化がそのまま移植されたのではなく、既存の日本の飲酒文化と重なりながら独自に変化していったのです。
この混ざり合いが、後の「居酒屋でまずビールを飲み、その後に日本酒や焼酎も楽しむ」という、日本独自の飲酒スタイルにもつながっていったと考えられます。
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現代につながる変化とは何だったのか
明治から戦前にかけての変化は、現在の酒場文化にも大きくつながっています。
ここでは、その変化について整理していきます。
ビールの大衆化への入口
明治から戦前にかけてのビールは、まだ完全に大衆酒とは言えませんでした。
明治初期には高級品として扱われ、都市部の上流層や西洋文化に触れる人々を中心に飲まれていました。
しかし、国産ビール会社の誕生や、瓶詰め・輸送技術の発展によって、少しずつ一般の人々にも届くようになっていきます。
また、ビヤホールや洋食店の広がりによって、「外でビールを飲む」という体験も都市部で知られるようになりました。
この時代は、ビールが一部の人の特別な飲み物から、より広い人々へ向かっていく準備段階だったと言えます。
つまり、戦後にビールが大衆酒として広がるための入口が、明治から戦前にかけて作られていたのです。
居酒屋文化との融合
ビール文化は、最初から現在の居酒屋文化の中にあったわけではありません。
明治から戦前にかけては、ビヤホールや洋食店といった西洋式の空間で飲まれることが多く、日本酒中心の酒場文化とは少し距離がありました。
しかし、国産ビールの生産が進み、ビールが徐々に身近になっていくことで、日本の酒場文化の中にも少しずつ入り込んでいきます。
日本酒を飲む酒場、
洋風のビヤホール、
都市部のバーやカフェー。
こうした複数の飲酒空間が並び立つ中で、ビールは次第に「日本の酒場でも飲まれる酒」へと変化していきました。
この流れが、戦後の居酒屋文化における「まずビール」という感覚につながっていきます。
戦後文化へのつながり
明治から戦前にかけて、ビールは近代的な飲み物として日本に広がっていきました。
しかし、本格的に大衆酒として定着するのは、戦後の経済成長を待つことになります。
それでも、この時代に国産ビール会社が生まれ、ビヤホール文化が広がり、都市部でビールを飲む習慣が作られたことは大きな意味を持っています。
戦後になると、会社員文化、大衆酒場、家庭用瓶ビール、そして生ビール文化が広がっていきます。
その土台には、明治から戦前にかけて作られた、「ビールを近代的な酒として受け入れる文化」がありました。
つまりこの時代は、戦後のビール大衆化へ向かう前段階として重要な時代だったと言えます。
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ビール好きとして思うこと
ビール検定などでビールの知識を学んだことがある方なら、国産ビールの誕生について知っているかもしれません。
1876年に北海道・札幌で始まった「開拓使麦酒醸造所」。
1887年に誕生した「ヱビスビール」。
1888年に、現在のキリンビールにつながる「ジャパン・ブルワリー」。
こうして、現在まで140年以上受け継がれているビール会社の流れが生まれていきます。
また、今でも「ビヤホールライオン」のように、「ビヤホール」という名前を残すお店があります。
さらに、サッポロビールからは、「サッポロ 銀座ライオンビヤホール スペシャル」という、ビヤホールの名を冠したビールも2025年7月23日に全国で数量限定発売されました。
サッポロビールのニュースリリースによると、この商品は日本最古のビヤホールである「銀座ライオン」が監修した特別醸造ビールとされています。詳しくはこちらのリンクをご覧ください。
→ https://www.sapporobeer.jp/news_release/0000017662/
こうして見ると、明治から戦前にかけて広がったビール文化やビヤホール文化は、現在にも形を変えて残っているのだと感じます。
普段何気なく飲んでいるビールも、その背景をたどっていくと、日本の近代化や都市文化の流れとつながっているように思えます。
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まとめ
明治から戦前にかけては、日本の酒場文化が大きく近代化した時代でした。
西洋文化とともにビール文化が広がり、ビヤホールや洋風酒場など、新しい飲酒空間も誕生していきます。
また、工業化によって、ビールは少しずつ「広く飲まれる酒」へ変化していきました。
こうした変化は、現在の居酒屋文化やビール文化にもつながっています。
次回は、戦後の大衆酒場文化とサラリーマン文化について整理しながら、「とりあえずビール」文化がどのように広がっていったのかを見ていきます。
▶ 戦後の大衆酒場とは?サラリーマン文化とビールの関係を読み解く【E-2-04】
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関連リンク
▶ 江戸の居酒屋とは?立ち飲み文化と庶民の酒を読み解く【E-2-02】
▶ 居酒屋文化とビールを読み解く ― 日本人はどこで、なぜ飲んできたのか ―【E-2-0】
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